kiss me 6
生きていくために、なくてはならない思い出（モノ）を失って、それでも、死ぬことも狂うことも許されずに。
平気な顔をして。ＭＳに乗って、指揮をして、戦争をして。
シンの心配を、して。
それは、どんな生き方なんだろう。
どんな、人生なんだろう。
戦闘中は、気が張っているのか何とか乗り越えられるというのに。
下りたとたんに、これか。
バスルームに蹲りながら、散々胃液を吐いた唇を震わせ、アスランは溜まった生理的な涙を瞬いて落とした。
食事は取れなかった。空っぽの胃から、胃液だけを搾り出すのは、辛い。
起きなければと思うのに、体がついていかない。
今日はキラが来てくれて助かったけれど、次から、指揮をシンかレイに委ねなければ、危ないだろう。
浴槽に縋って無理に体を起こし、手探りで、カランを回して吐いたものを流す。
頭上からのシャワーはアスランも濡らしたが、温度を感じない。
ただ、水の落ちる音だけが、鼓膜を打った。
壊れてきているのかな、と、昏く笑う。
最近、急に。
正確には、シンとの心地よい関係を壊してからだ。
アスランは、温度の無くなった指を唇に触れさせた。
少しだけ、あたたかい。
それはたぶん、アスランの体温ではなくて。
シン、の。
大丈夫、まだ、憶えている。
アスランは微笑う。
まだ、あたたかい。
だから大丈夫、生きていける。
まだ、戦える。
まだ、償える。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
・・・・・・
でも。
また。
これも、生きていたら、きっとなくしてしまうんだ。
持ったままでは、いけないのだろうか。
今、アスランが持っているのは、もう、このちいさなぬくもりだけなのに。
たったこれだけのものも、持って逝くことは許されないのだろうか。
犯した罪の償いに、すべてを差し出す覚悟はできていたはずだったけれど。
でも、たったこれだけの。
唇の先ほどのぬくもりだけ。
これだけは、許して。
俺に、残して。
水を打つ音が、鼓膜を叩く。
高い位置からのシャワーが、浴槽に水を溜めていく。
落ちてくる水で、息をするのが、苦しい。
・・・・人は、30センチの水深でも溺死できるんだったな。
アカデミーで得た知識が、不意に甦った。
浴槽に、水が溜まっていく。
そう。
目を閉じて。
少しだけ、我慢すればいい。
今まで、すっと我慢してきたのだから、きっとそれは、たいしたことではないだろう。
浴槽の中、少しづつ、水が溜まって、いく。
どこか、胸が浮き立つようだった。
わくわく、する。
目を閉じて。
少しだけ、我慢。
そう、胸の内繰り返す。
まだ、唇があたたかい。
これを、持ったまま。
知らず、笑みがこぼれた。
目を閉じる。
水面を叩く音がする。
だって、もういいだろう？
少しだけ、我慢。
少しだけ。
あと、少しだけ。
そうしたら・・・・
思い切り緊張してドアを開けると、その人はいなくてちょっと気が抜けた。
でも、シャワーの音がする。
いるなら、中で待とう。
待って、謝ろう。
ちゃんと、話して。
大好きだって言って、キスしよう。
たくさんたくさん、キスしよう。
シンはそう心に決めて、ベッドに座り込んだ。
知らず、笑みがこぼれる。
あの人、また、あんなふうに気持ちよさそうにしてくれるかな。
だったら嬉しい。
・・・・・
シャワーの音が、一定のまま変わらない。
水を打つ音。
「どうしたんだろ」
呟いて、立ち上がった。怒られるかな、と思いつつ、こっそり、見に行ってみる。
やたらと音がすると思ったら、浴室のドアが開けっ放しになっていた。
その向こうに、赤い影。
・・・・服のまま？
嫌な予感がして飛び込むと、案の定、赤い軍服が、シャワーに濡れて、力なく浴槽にもたれかかっていた。
「アスランさんっ！」
心臓が、止まるかと思った。
慌てて抱き起こすと、昏い淵を抱えた瞳が緩慢に開いた。
それは呆然とシンを映し、それから、浴槽の方に向けられる。
30センチほどの深さに溜まった水を、何かを乞うように、見ている。
「どうしたんですか」
生きてる、と。それだけのことに、どうしようもなく安堵しながら、とりあえず、出しっぱなしのシャワーを止めた。
冷たい水だ。シンは急いで濡れた軍服を剥ぎにかかる。
「い、や。少し吐いていて。流そうと思ったら、うっかり」
うっかり、という濡れ方ではない。
半分も降りかかっていない浴槽に、こんなに水が溜まるほど長く浴びていたのなら、軍服の防水などないも同然だ。アンダーまでぐっしょりと濡れていた体は、恐ろしいほどに冷えていた。
「自分で、出来る」
「出来てないじゃないですか・・・立てます？」
「ああ」
そう答えているのに、アスランは立とうとしていない。
ただ、ぼんやりと溜まった水を見ている。
脱がせるのだけは上手くなっていたから、とにかく濡れた服を全部剥いて、タオルで包んで。
自分よりも幾分大きいその人を、抱えてとにかく浴室から引きずり出そうとしたところで、不意に、アスランが顔を上げた。
まるで、底のない淵のような瞳が、シンの影を飲み込む。
「・・・そうだ、シン」
「はい」
「これで、しばらくは落ち着くと思うんだが、近く出撃があった場合、お前に指揮を頼もうと思う」
「・・・・はい？」
抱き上げようとしていた腕から、力が抜ける。その人を落としそうになり、支えるために、側に膝を付いた。
「前に、だめならそう言うと言っただろう？それともお前は、指揮よりも先頭に立って戦いたいか？ならばレイに頼む。・・・二人で、話し合ってもいいな。お前たちは仲が良いから。・・・それから」
それから、何だったろう。
アスランは頭を巡らせた。
シャワーから、ぱたりと水滴が落ちる。水音。30センチ。
「そうだ、キラ。あいつ、もう帰ったか？」
「あ、はい」
「しまったな。情報交換をしておかないといけないのに。アークエンジェルは神出鬼没だから・・・お前、何か聞いていないか？」
「・・・・あの、あなたの、話を」
記憶を失ったことを聞いたのだと。
あなたの失った思い出話を聞いたのだと。
それを、言う前に。
「そうか、他には？」
事務的な口調で。
「・・・・・いいえ」
「わかった、艦長に聞いてみる」
それから。
あと、しなければいけないのは何だろう。
セイバーの修理状況を見に行って。
その後、少し眠らないと。
薬が効かなくなっているから、医務室に行って。
それから。
それから。
水音、水音。
我慢、我慢。
まだ、ダメ。
だから。
「・・・アスランさん」
「なんだ？」
ああ、シン。
礼を言って、帰さないと。彼も疲れているんだし。
「すまない。もう大丈夫だから」
そう言って、笑った、その人の笑顔。
紫色の唇、青ざめた頬。
仕事の話をしながら。
大丈夫だと、言いながら。
この人は。
シンは、どうしていいかわからなくなった。
つめたい髪、つめたい肌。つめたい、体。
思わず抱きしめるけれど、それはまったく温もらなくて。
シンの体温を、奪うばかりで。
だって、たったあれだけのことで。
この人を、こんなにしてしまうなんて思わなかったんだ。
こんなに、壊してしまうなんて。
「俺には、何もできませんか？」
シンを見上げる奈落の瞳。
その、深い深い淵。
それに、恐怖しながら。
「俺じゃ、あなたを助けられませんか？」
あなたの壊した物の代わりにはなれませんか？
あなたの、なくしたものを埋められませんか？
それが、叶うなら。
その淵に、代わりに落ちてもかまわないから。
そんな決意に満ちたシンの瞳を、アスランはぼんやりと見上げていた。
今、シンは何と言っただろう？
「たすけて、くれるのか？」
この腕で、俺を？
「はい」
ふわ、と。花が開くように、笑って、アスランは。
「ころして、くれるのか？」
そう言って、思い出したようにシンの腕に頬を寄せた。
その先の、指を握る。あたたかい。
抱きしめてくれる、腕。
そのぬくもりにくらくらした。
30センチのつめたい水、そんなものより。
この、あたたかな手に終わらせてもらえる。
それは、どんな喜びだろう。
どんな、幸福だろう。
知らず、笑みが深くなる。
あったかいもの、もったまま。
この、あったかい、てに。
それは、どんな・・・